単騎、千里を走る。 [2006年1月28日公開]
父と息子
日中の、母親を失ってから直接対峙させられる不器用な父親と息子の物語が、広大な中国の大地を通してロードムービー形式で描かれる。
高田(高倉健)とその息子は妻/母親の死後、何が原因で父子が断絶したのかは直接描写はないが、父親の言葉とその後の行動が、息子には母親の死の責任からの逃避と映った。息子は中国のある村の仮面劇を研究対象とするが、本人も父親同様、内面孤独な人間であることが間接描写される。(唯一息子を理解する献身的な妻の存在が救いだ。)
一方、中国の父子は、妻と正式に結婚もせず8年間も放っておき、母親の死と共に父親としての責任を託される。父親は、妻の死によって初めて息子への愛情を持つようになる。双方とも父は息子への不器用な愛情を示し、息子はそれに反発・拒絶している。
中国人にとって外人である高田の、実直な言動が少しずつ周囲を変えてゆく。言語の壁によって、コミュニケーションが途絶えて孤立する高田は、息子がなし得なかった「仮面劇を撮影する」ことが唯一の目的だったが、日本にいる息子の言動・状態によって次第にその目的を変えていくことになる。役者の息子を捜して彼を撮影して服役中の父親に見せる、という「いい人」になってしまうのだが、これは結果論にすぎない。(高田はこの役者親子に、自らがなし得ず喪失したままの、父子のあるべき関係性を見て託す。)
高田は逃げた役者の息子を追って、広大な大地とその乾燥した渓谷で息子共々迷子になる。これは高田の息子に対する今までの心境とリンクし、父親に会いたくない役者の息子の戸惑いとリンクする。一晩をこの渓谷ですごした高田は、自分の息子とできなかった親子の触れ合いを、言葉の通じない他人の息子を通して行い、自己反省する。幼い役者の息子はまだ見ぬ父親を高田に見る。
上記で触れたが、本作品は脚本において面白い構成をしている。他者(息子)にとってよかれと思う目的設定(もちろん思い込みであるが、この遂行が同時に自己の救済を兼ねており、この設定された目的が主人公を動かす唯一無二の動機だ)が、状況や他者によってその設定を変更せざるをえなくなる。これは目的の動機が他者によって否定されることによって、当初の目的それ自体も喪失されることとなる(中国へ飛んだ理由が消滅する)。他者の救済という初期目的の喪失により、そのベクトルは次第に他者を通して自己反省へとブーメランのように鉾先を変えるのだ。この不思議な目的性が、無目的に漂うことでそこに意味を求めるロードムービーとは異なる構成となっている。
また、本作品には「いい人」しか出てこない。見方を変えれば、どこに行っても我を突き通す高田が一番ワガママだ。息子への償いを勝手に解釈し、いつでも自己都合を優先させる。これは「不器用」とは全く異なるものだ。
彼は相手の都合や忠告に聞く耳を持たない。帰国を促す嫁の言葉も聞かず、中国では振り回すのは通訳を筆頭に、村全体に騒動を起こし、当初目的の劇の撮影を突然やめたと言い出したり、撮影時も感慨にふけって劇を観ていない。これでは単に「困った外人・困った父親」である。息子の写真を見せられた役者には「いい人」かもしれないが、本当にいい人は、ワガママを受け入れアレンジする通訳のお姉さんと、賄賂を突き返してどこまでもつきあう村の劇担当の若者だろう。そもそも劇の撮影以外に息子との対話法はあったはずである。
演出によって感動的に仕上げているが、上記のように脚本において不具合があり、結局は健さんの一人合点・一人相撲である点で、(たしかに通訳を連れた単騎は千里とまではいかないが、それに値する距離を異国の地で走ったかもしれないが)どこかしっくりとせず、単調な主観の心情描写で終わってしまっているのが残念だ(主観による、他者との関係性の意味付け作業=息子へ直接働きかけるのでなく、自己の内面に固執し、その解明に終わっている)。スケールの大きな舞台において大勢を振り回す、一人のエトランゼの小さな心の物語、とでも言おうか。息子が仮面劇に興味を持ったのも、仮面自体でなく、それを研究対象とする自らが付けて偽る仮面の内面を、その表面に見ていたからだ、というのも紋切型か。そもそも社会的役割(ペルソナ)という仮面を誰でも複数つけている。「仮面の親子」というキーワードだけでは、このスケールの設定と物語説明には弱いような気がする。
また、行動力でグイグイと周りを引っ張って道を切り開いていくスタイルは、自己主張が強く行動主義・成果主義的な中国人には受けても、個人のワガママを良しとしない日本人には受け入れ難いものがあるのではないのだろうか。
ロングショットによる中国の平原や岩波などの広大な大地や、弧を描いて反り返る瓦屋根の棟々や、レンガと土壁からなる中国内地の村の姿が美しい。それに仮面劇の役者の息子の表情がとても自然でいい。(実は張藝謀は子役の発掘と扱いがうまい。)
言葉の通じないこの子との別れ際の素朴で心暖まるシーンのために伏線として用意されたものの、原野での脱糞シーンや、さらにそれを撮る高田の(異常)行動やその直接描写はどうかと思う・・。(ニーハオトイレで余裕で会話を楽しむ中国人のおおらかな感覚なのだろうか。)
東京パートの猥雑で無機質な都会のビルや病院室内などを、青をベースに機械的にして途切れた親子関係を冷たく示す。反面、次々と広がる状況の中で、異国の人間に対して心を開き、またそれによって逆に人間味を取り戻していく中国でのパートを暖色系で示して色分けしている。
また、携帯電話とデジカメが異国日本人・高田ができる唯一のコミュニケーションを成立させる手段だ。その呼び出し音と電子音の冷たい音と、中国の雄大な大地をはじめ原初的な事物や優しい人達--つまり最新器機と自然が対応比較されているのも特徴的だろう。
エンドロールで日本部分は降旗康男が担当と知って納得する。本作品のトーンが降旗作品と類似しているからだ。(ここでの寺島しのぶの演技は良い。)
張藝謀---初期の圧倒的な色彩と構成美から一転、しばしの転調後、『初恋の来た道』で、画面美よりも人間劇へ。その後CG使いの大作へエンターテーメント色を強め、本来の彼のファンをしばし失望させた後の本作品。初期も捨てがたいが、彼はやはり『活きる』などの自然主義的人間劇がいい。作家として新たな可能性を求めて様々な手法を試みたいのはわかる。一通り終えた後は、北京五輪プロモーション映像/開閉会式演出担当となった現在、「中国の巨匠」として、正攻法作品を今後も期待したい。
視点を変えて、これが張藝謀が高倉健をリスペクトした、はじめに健ありき高倉健至上主義の映画であると見るならば、違和感はない。70を過ぎても健常で、未だに「高倉健」を演じられる健さんは、俳優としてこんなに幸せなことはないだろう。(だてにゴルゴ13の元になった人ではない。)個人的に仁侠ものよりも、過去を封印して過疎の漁村で寡黙に荒波と対峙している中年以降のイメージが強い。
『君よ憤怒の河を渉れ』以来、中国での健さん人気はすごいと聞くが、その破天荒な作品内容ゆえに受けたのか、なぜ中国で『君よ〜』が人気なのかは疑問である・・。
高田(高倉健)とその息子は妻/母親の死後、何が原因で父子が断絶したのかは直接描写はないが、父親の言葉とその後の行動が、息子には母親の死の責任からの逃避と映った。息子は中国のある村の仮面劇を研究対象とするが、本人も父親同様、内面孤独な人間であることが間接描写される。(唯一息子を理解する献身的な妻の存在が救いだ。)
一方、中国の父子は、妻と正式に結婚もせず8年間も放っておき、母親の死と共に父親としての責任を託される。父親は、妻の死によって初めて息子への愛情を持つようになる。双方とも父は息子への不器用な愛情を示し、息子はそれに反発・拒絶している。
中国人にとって外人である高田の、実直な言動が少しずつ周囲を変えてゆく。言語の壁によって、コミュニケーションが途絶えて孤立する高田は、息子がなし得なかった「仮面劇を撮影する」ことが唯一の目的だったが、日本にいる息子の言動・状態によって次第にその目的を変えていくことになる。役者の息子を捜して彼を撮影して服役中の父親に見せる、という「いい人」になってしまうのだが、これは結果論にすぎない。(高田はこの役者親子に、自らがなし得ず喪失したままの、父子のあるべき関係性を見て託す。)
高田は逃げた役者の息子を追って、広大な大地とその乾燥した渓谷で息子共々迷子になる。これは高田の息子に対する今までの心境とリンクし、父親に会いたくない役者の息子の戸惑いとリンクする。一晩をこの渓谷ですごした高田は、自分の息子とできなかった親子の触れ合いを、言葉の通じない他人の息子を通して行い、自己反省する。幼い役者の息子はまだ見ぬ父親を高田に見る。
上記で触れたが、本作品は脚本において面白い構成をしている。他者(息子)にとってよかれと思う目的設定(もちろん思い込みであるが、この遂行が同時に自己の救済を兼ねており、この設定された目的が主人公を動かす唯一無二の動機だ)が、状況や他者によってその設定を変更せざるをえなくなる。これは目的の動機が他者によって否定されることによって、当初の目的それ自体も喪失されることとなる(中国へ飛んだ理由が消滅する)。他者の救済という初期目的の喪失により、そのベクトルは次第に他者を通して自己反省へとブーメランのように鉾先を変えるのだ。この不思議な目的性が、無目的に漂うことでそこに意味を求めるロードムービーとは異なる構成となっている。
また、本作品には「いい人」しか出てこない。見方を変えれば、どこに行っても我を突き通す高田が一番ワガママだ。息子への償いを勝手に解釈し、いつでも自己都合を優先させる。これは「不器用」とは全く異なるものだ。
彼は相手の都合や忠告に聞く耳を持たない。帰国を促す嫁の言葉も聞かず、中国では振り回すのは通訳を筆頭に、村全体に騒動を起こし、当初目的の劇の撮影を突然やめたと言い出したり、撮影時も感慨にふけって劇を観ていない。これでは単に「困った外人・困った父親」である。息子の写真を見せられた役者には「いい人」かもしれないが、本当にいい人は、ワガママを受け入れアレンジする通訳のお姉さんと、賄賂を突き返してどこまでもつきあう村の劇担当の若者だろう。そもそも劇の撮影以外に息子との対話法はあったはずである。
演出によって感動的に仕上げているが、上記のように脚本において不具合があり、結局は健さんの一人合点・一人相撲である点で、(たしかに通訳を連れた単騎は千里とまではいかないが、それに値する距離を異国の地で走ったかもしれないが)どこかしっくりとせず、単調な主観の心情描写で終わってしまっているのが残念だ(主観による、他者との関係性の意味付け作業=息子へ直接働きかけるのでなく、自己の内面に固執し、その解明に終わっている)。スケールの大きな舞台において大勢を振り回す、一人のエトランゼの小さな心の物語、とでも言おうか。息子が仮面劇に興味を持ったのも、仮面自体でなく、それを研究対象とする自らが付けて偽る仮面の内面を、その表面に見ていたからだ、というのも紋切型か。そもそも社会的役割(ペルソナ)という仮面を誰でも複数つけている。「仮面の親子」というキーワードだけでは、このスケールの設定と物語説明には弱いような気がする。
また、行動力でグイグイと周りを引っ張って道を切り開いていくスタイルは、自己主張が強く行動主義・成果主義的な中国人には受けても、個人のワガママを良しとしない日本人には受け入れ難いものがあるのではないのだろうか。
ロングショットによる中国の平原や岩波などの広大な大地や、弧を描いて反り返る瓦屋根の棟々や、レンガと土壁からなる中国内地の村の姿が美しい。それに仮面劇の役者の息子の表情がとても自然でいい。(実は張藝謀は子役の発掘と扱いがうまい。)
言葉の通じないこの子との別れ際の素朴で心暖まるシーンのために伏線として用意されたものの、原野での脱糞シーンや、さらにそれを撮る高田の(異常)行動やその直接描写はどうかと思う・・。(ニーハオトイレで余裕で会話を楽しむ中国人のおおらかな感覚なのだろうか。)
東京パートの猥雑で無機質な都会のビルや病院室内などを、青をベースに機械的にして途切れた親子関係を冷たく示す。反面、次々と広がる状況の中で、異国の人間に対して心を開き、またそれによって逆に人間味を取り戻していく中国でのパートを暖色系で示して色分けしている。
また、携帯電話とデジカメが異国日本人・高田ができる唯一のコミュニケーションを成立させる手段だ。その呼び出し音と電子音の冷たい音と、中国の雄大な大地をはじめ原初的な事物や優しい人達--つまり最新器機と自然が対応比較されているのも特徴的だろう。
エンドロールで日本部分は降旗康男が担当と知って納得する。本作品のトーンが降旗作品と類似しているからだ。(ここでの寺島しのぶの演技は良い。)
張藝謀---初期の圧倒的な色彩と構成美から一転、しばしの転調後、『初恋の来た道』で、画面美よりも人間劇へ。その後CG使いの大作へエンターテーメント色を強め、本来の彼のファンをしばし失望させた後の本作品。初期も捨てがたいが、彼はやはり『活きる』などの自然主義的人間劇がいい。作家として新たな可能性を求めて様々な手法を試みたいのはわかる。一通り終えた後は、北京五輪プロモーション映像/開閉会式演出担当となった現在、「中国の巨匠」として、正攻法作品を今後も期待したい。
視点を変えて、これが張藝謀が高倉健をリスペクトした、はじめに健ありき高倉健至上主義の映画であると見るならば、違和感はない。70を過ぎても健常で、未だに「高倉健」を演じられる健さんは、俳優としてこんなに幸せなことはないだろう。(だてにゴルゴ13の元になった人ではない。)個人的に仁侠ものよりも、過去を封印して過疎の漁村で寡黙に荒波と対峙している中年以降のイメージが強い。
『君よ憤怒の河を渉れ』以来、中国での健さん人気はすごいと聞くが、その破天荒な作品内容ゆえに受けたのか、なぜ中国で『君よ〜』が人気なのかは疑問である・・。
※利用規約に違反しているレビューを見つけたら、goo事務局までご連絡ください。
検索 - 単騎、千里を走る。
-
ウェブ検索 [単騎、千里を走る。]について、ウェブ検索で調べる
-
ブログ検索 [単騎、千里を走る。]に関連するブログを探す
-
教えて!goo [単騎、千里を走る。]について、聞いてみる -
Wikipedia検索 [単騎、千里を走る。]について、Wikipedia検索で探す







